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舌癌ー「その後」のその後 [病]

当ブログ、舌癌に関する話題へのアクセスが多いようです。やはり同じ病の方達が検索でやってくるからなのでしょう。私も同じように調べまくりましたからよくわかります。
不安を抱えている方、すでに病と闘っている方、様々だと思います。
このブログも長い間更新を怠ってしまったのでこの辺で「その後」のその後を報告をしたいと思います。

舌癌の経過はすこぶる順調です。
退院後3ヶ月に一度診察、半年に一度造影CTというペースでした。
しかもその間にただ診察というのももったいないということで虫歯の治療までしていただきました。大学病院の口腔外科で虫歯まで治療してくれるなんてずいぶんと贅沢な話です(笑)その診察も2016年11月のCT後は一年に一度で良いことになりました。
次回は2017年11月の予定です。
発症は2013年、退院が2014年3月ですから間もなく3年が経とうとしています。
言葉も耳のとおい老人(例えば87歳の母など)には少し聞き取り辛いこともあるようですが一般人には問題なく通じます。
「滑舌の悪い人だなぁ」「昼間から飲んでのか?」ぐらいの印象ではないでしょうか。
食べる方も特に食べられないものもなく以前と変わらない食事をしています。
外食でも何の不安もありません。
ただ一部上あごに張り付いてしまうような食べ物は苦労することがあります。例えば薄いハム等のような。
健康な時のように自在に舌を動かすことは難しく、舌で移動させることが困難なときは行儀は悪いですが箸を口に突っ込んで移動させています。ほとんどありませんが。
それから移植した半分の舌は肩の筋肉で神経がありませんので魚の骨や極端に熱いものなどには注意が必要ということぐらいでしょうか。
これは記述したかどうか失念しましたが、2013年の舌癌の前2006年に白血病にもなっています。こちらは未だ3ヶ月に一度血液検査と検診を受け続けています。
こちらも問題があるわけではなく、おそらく私から申し出れば診察回数を減らすことは可能だと思いますが、病歴が病歴なので安心の為にそのままにしています。
現在は介護メインの生活ですが自宅作業の映像編集仕事、以前からの撮影仕事も続けていますがこちらはシングル介護でどうしても母をショートステイに預けなければなりませんので少しセーブしています。ということで生活に困るようなことも今はありません。

思えば命を落としてもおかしくない病にかかりながら今もこうして生きているのです。
そのおかげで様々な新しいチャレンジも出来ていることを考えるとあらためて医学に感謝です。



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シングル介護日記 The Longest Day 001 [介護]

私のように独身者が介護することを「シングル介護」と呼ぶのだということを最近になって知りました。
言葉が生まれた背景には同様の介護形態が増えていることがあるのでしょう。
今介護度3の母を介護しているのですが、実態は4〜5だと考えています。
ベット脇に置いたポータブルトイレには何とか自力で移乗できるのですが、パンツを下ろしきれない(自力で体を支えることが困難なほど足が弱っているため)で失敗することが増えてきています。
車椅子への移乗も危なっかしいですが今は自力で何とか。
食事も車椅子に座りポロポロとこぼしながらも何とか自力で。
できるのはそれだけ。

現在の生活は、
朝6時に起き、30分ほどボーッとしたあと約30分で朝食を作る。
メニューはほぼ決まっていて、ごはんにみそ汁(※具はカブ、ほうれん草、舞茸、しめじ、椎茸、ニラなどを適宜に二種類程選択してローテーションさせている。それ以外に母のお気に入りであるごま昆布としらす、カニかま、卵焼き、ウインナ炒め、納豆などをこちらも適宜組み合わせることで済ませている。
食後、糖尿病の母に7種類の薬を飲ませ(※私も脳梗塞の後遺症で朝は4種類の薬を服用)、食器を片付けたのちに、ベットの整えとシーツ用の防水シートを替える(※この防水シートの存在が分かった時はうれしかった。それまではバスタオルで代用していたのですが一日に多い時には3枚ぐらい交換せねばならず小さな洗濯機の家では大変だったのです)。ポータブルトイレの中身をトイレに流し、こびりついた便を落とした後に風呂場できれいに洗浄し、ポータブルトイレ自体も雑巾で拭き(※便座の裏が意外と汚れている)、そして母を車椅子からベットに移しおむつを含め全てを着替えさせるついでにほぼ全身をタオルで拭く。
母はここで一旦横になりほとんどの場合そのまま寝てしまう。これがほんとの「ははのんきだね!」。
洗濯機をまわした後、週5日間は何らかのゴミ出しがあるのでその用意をして150メートル程離れたゴミ捨て場に捨てに行く。二日分たまったおむつの重さといったら鉄アレイ並みで、もったいないと冗談まじりにゴミを上げ下げしながら腕の筋トレしながら(笑)おむつアレイだ。
さぁここでやっと一息つけると思ったら、洗濯機が終了の合図。洗濯物を一枚一枚ハンガーに干し、大きなため息と「どっこらしょ」と言いながら今度はほんとにやっと一息。フー
(※しかしこの「どっこらしょ」はいつ頃から言い出したもののだろうか、正直中学ぐらいから言っていたような気もするのだが・・・)

パソコン起ちあげ、メールチェック。今これが外界との唯一の接点。
ほとんどは広告やメルマガなのだが、たまに知り合いから届くメールを発見するとやはり嬉しい。

自分の部屋は二階なのだが、今回数万円出して高性能の無線ナースコールを導入。カードサイズで持ち運びも苦にならず、壁やドアがあってもバッチリ届く(※以前はホームセンターの数千円のものだったのだが反応が悪くすぐに使わなくなってしまいました)。
・小電力型ワイヤレスコールカード発信器
http://www2.panasonic.biz/es/ai/products/search/search?dep=densetsu&c=search&hinban=ECE1702P
・小電力型ワイヤレスコール携帯受信器(本体)(充電台別)
http://www2.panasonic.biz/es/ai/products/search/search?dep=densetsu&c=search&hinban=ECE1611K
※発信器と受信器は通常の組み合わせではありませんが、問題なく使用できます

更に私自身に何かあった時に電話の使い方がおぼつかない母が外部へ連絡できる様にするために電話も交換。
ボタンを押すだけで登録した3件の相手先に順次発信する仕組みです。
・ユニデン デジタルコードレス電話機(子機1台+安心コール1台)
http://www.uniden.jp/products/ct/dect3188c.html
※こちらは残念ながら製造中止品で在庫限りとなります。

と、ここまでで大体9時前後になっています。
時々下へ様子を見に行ったりしながら、お昼までは自分の用事を済ませる時間(※たまに買い物)
だまっていると寝てばかりの母を11時に一回起こし(※昼夜が逆転する傾向があるため)そのままお昼までは起きていてもらうように最近あらためました。
お昼は我が家の伝統で食パン一枚と牛乳とコーヒーのみが通常のメニューで、たまに惣菜ののり巻きだったり夏はソーメンだったり。食後1時ぐらいまではそのまま車椅子で起きていてもらい必要なら着替えさせます。

と少し長くなりましたので続きは次回に。





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「宮戸島復興記録 2011-2013」 ゆふいん文化・記録映画祭にて松川賞受賞 [映画と人生]

嬉しい知らせが飛び込んできました。
足掛け4年越しで撮影してきた「宮戸復興の記録 2011~2013」がゆふいん映画祭のゆふいん文化・記録映画祭の最高賞(松川賞)を受賞しました。

ゆふいん文化・記録映画祭公式ページ
http://movie.geocities.jp/nocyufuin/matsukawa/matsukawaprize7.html

以下は上毛新聞の記事、

ゆふいん映画祭上毛記事01.jpg

縁のあった宮城県東松島市宮戸島の東日本大震災前からその後の復興の様子を記録した作品です。

あの2011/3/11・・・
大地震と津波の被害を報道で見て真っ先に考えたのが宮戸は大丈夫かということでした。

この時の顛末、長くなりますが今回記録の意味も含めもう少し詳細に記しておこうと思います。
(関連プログ、http://pangaea-film.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301424811-3

アムールの飯塚監督達と民族無形文化財「えんずのわり」の撮影で宮城県東松島市宮戸島月浜地区を訪れたのが2010年のこと。最終撮影が2011年2月末に行われたその2週間後にあの東日本大震災が襲いました。ここ千葉でも尋常ではない揺れ方で家が壊れると思いましたし、丁度散歩中だった今は亡き父も思わずその場に座り込んだといいます。
テレビなどの報道でその尋常でない様子を目の当りにし、とにかく行かなければいけないという思いにかられ飯塚監督とも連絡をとりあいながら時期を見計らっていました。
宮戸島というように島ではあるのですが数十メートルの橋一本で本土とつながっていました。その橋が崩落し島に渡る手段がなかったからです。
「えんずのわり」で撮影したあの子供達は・・・ジリジリしながらもやっと「宮戸では死者なし」と聞いてほっとできたことが唯一の救いでした。

震災から約3週間後の3月30・31日、自衛隊によって仮設の橋がかけられたという情報が入り何とか島に渡れるという見込みがつき、文化庁時代から宮戸と縁の深い岡村道雄氏・飯塚監督・私の3名で一路宮戸を目指すことになりました。どうせ行くなら支援物資もと思い、報道などで主食は足りているようなので果物がいいだろうと考え、地震後の流通混乱最中、近所のスーパーに頼み込んでデコポンを3ケース確保してもらい積んでいきました。
往路震災の影響で東北自動車道はあちこちが歪んでいて、普段ならあり得ない段差に何度か車体の腹を打ち付けたことが印象に残っています。

宮戸に入る直前の町に野蒜(のびる)地区があるのですが、ここは高台がなく避難が十分出来ずに500人近くの犠牲が出たとのことで、避難所の体育館まで津波が押し寄せ犠牲者が出たということも後で知りました。その風景は一変し住宅が建ち並んでいたあたりは津波で押し流されぽつぽつと残る住宅も一階部分がひどく破壊されたていました。
津波で水没した地面に重機で土を盛って仮に作られた凸凹の道を行きながらその津波の威力と破壊力に呆然とするしかありませんでした。同年の11月に渋谷昶子監督と訪れた際にはがれき処理の真っ最中で野蒜地域は真っ平らの状態。ふと以前東京大空襲のインタビューを数十人に渡り撮っていたせいでしょうか「空襲」というワードが頭をかすめたことが強烈に印象に残っています。
空襲の焼け野原とはこういうものだったのではなかろうか・・・

仮設橋を渡り宮戸へ入ると最初に通るのが里浜地区になります。道路は至る所で盛り上がり、裂けていて対面通行が出来ない箇所も多くありました。
まずは里浜地区を過ぎ、避難所になっていた宮戸小学校へ。
校庭には自衛隊の車両がひしめき、仮設のお風呂テント、教室と体育館には避難した住民、「えんずのわり」でお世話になった縄文歴史博物館の菅原氏などとも再会。
寒さをしのぐため外で焚き火を囲む人々。玄関には支援の物資が堆く積まれていたので持参した果物を提供。丁度食事時で、デコポンがすぐに使われているのを見てやはり果物で正解だったなと感じました。ただ一人にデコポン8等分ほどしか行き渡らず自分の不備とともに被災者の数の多さを思いました。持参したカメラを出し撮影と思ったのですが、被災した方々にカメラを向けていいものか一瞬躊躇。しかし今撮らなければいつ撮るのだと自分を鼓舞して撮影。ただやはり対象に近付けていないしどこか遠慮がちな画になってしまいました。

移動し月浜地区へ入るとそこは想像を超えた破壊に見舞われていました。



この日は高台にあって被災をまぬがれた民宿へ泊めていただくことに。
もちろん3週間経っていてもライフライン(電気・ガス・水道)は復旧しておらず、コンロを含め持ち込んだ食料と水でしのぐ。
翌日、月浜地区の人々が焚き火を囲んで当面のことについて話あっていたのですが、その時に笑顔がこぼれていたのが印象的でした。区長さんに撮影のお願いをしたところ「変なものに使わないでね」と冗談まじりの笑顔で返されました。話し合いの最中皆にもどこかゆとりさえ感じる笑顔がみられ、家はもちろん生活の全てを流され破壊されながらも笑顔になれる人間の強さに感動しました。
プロパンを使い炊き出しを行い、皆で食べ合うその結束力に心打たれながらカメラをまわし続けるだけしかできない自分でした。
宮戸島で死者が出なかったのはこのコミュニティーの結束力があったからこそでしょう。

岡村氏が宮戸で拠点として借りていた家が隣の大浜地区にあったのでそちらへ移動する。
大浜地区もほぼ全滅状態で浜近くにあった岡村氏の家は300メートルほど内陸へ押し流され無惨ながれきの山と化していました。歩いて移動するしかないのですが近づくにも破壊された家々の残骸には釘などがむき出しになっており足下に注意しながら進まなければなりません。
岡村氏が資料など何点か拾い上げた後に縄文歴史博物館のある里浜地区へ向かいました。
里浜地区は太平洋に対し裏側にあたる集落のせいかほとんど外見的には被害を感じることはありませんでした。ただ近づいてみると津波によってなのでしょう田に軽自動車が転がっていたり、実際に間近で見ると被害が多数出ていて、博物館の展示品などは無惨に床に転がり破壊されていました。
激しい地盤沈下にも見舞われ、排水口のマンホールが地面から数十センチ(おそらく7、80センチだろうか)浮き上がっており(実際は周りが沈んだため)その想像を越えた破壊力に圧倒されるばかりでした。

そして我々はガソリンや自分たちの水や食料にも限りがあるため一旦宮戸を離れたのです。

この時の最大の反省点は前年の「えんずのわり」撮影分のこともあり頭のどこかで勝手に「月浜集落の復興を追う」という固定観念にとらわれてしまい他の集落をきちんと撮影しなかったことです。
大浜地区は若干撮影はしたのですが、視点が違っていましたし、室浜地区に至っては一切撮影せずに帰路についてしまいました。
この時にこうした思い込みや常識にとらわれずに目の前にあるものを記録する姿勢ということの大切さを学びました。

「宮戸復興の記録 2011〜2013」は宮戸・野蒜地域の文化遺産の再生・活用検討実行委員会の映像記録として制作されました。よって現在のところ一般向けの公開は予定されていません。
今回の受賞を期に少しでも多くの方々にみていただければよいのですが・・・



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再会 父のいた時間 [映画と人生]

私の舌癌入院中に起きた父の孤独死から4ヶ月。退院後施設から寝たきりの母を引き取り2人で暮らし始めて1ヶ月半。食事の支度、排泄の世話、着替え、掃除、洗濯、買い物・・・ようやく日々の介護生活にも慣れてきました。
そんなある日、父の衣服を整理しておこうと思い立ち愛用していたジャンバーのポケットに何気なく手を入れると一枚のレシートが出てきました・・・

よく見ると日付は「2014/1/8」・・・

それは父が亡くなった当日の日付。

2014-1-8.jpg

この日はお昼過ぎから雨が降り出す寒い日でした。私も病室の窓から見た暗い雲の光景を今でも覚えています。あのどこか不安な光景・・・

刻印された時間は午前11:16分。

まだ雨は降りだしていない寒さの中、少々ふらつく危ない感じで自転車を漕ぐ父の姿が眼に浮かびます。それはおそらく死を迎える1〜2時間前だったのではないでしょうか。
この日父はいつものように朝ゴミ出しをして(ご近所の方が目撃していたことを後で聞かされました)、母をデイサービスに送り出し、買い物をし、一人で昼食(おそらくレシートにある第一パン一口包み)を食べ、一休みした後に風呂に入ったのでしょう。そして浴槽の中で静かに心臓が鼓動を打つのをやめてしまった・・・
今まで想像でしかなかった父の行動がこのレシートからハッキリと見えてきたのです。

後に母から聞いた話では食卓の上にはお弁当が並べられていたとのこと、それが母の好きだった生姜あさりご飯と自分は和風弁当だったことがレシートから分かります。
父は母がデイサービスから戻った後に二人でこれを食べるつもりだったのです。

父はまさに死の瞬間まで家族を思い確かに生きていたのです。

このたった1枚のレシートで父に再会することができました。
葬式にも四十九日にも出られなかった私が・・・

本当に本当にありがとう、あなたは凄い人です!


タグ:家族 人生 介護
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その後 [病]

とりたててご報告するようなこともない日常を送っています。

退院後施設にいる母をたずね、3月末には退所させ、今母と二人の生活を送っています。
要介護3の母の世話をしながら毎日の食事、買い物、洗濯、掃除・・・
退院当初は移植した筋肉が口の中一杯にあふれるような感覚があったのですが、今は小さくなりほとんど違和感を感じないレベルまできています、
食べにくさは多少ありますが食事もほとんど制限なく食べられています。
言葉はやはり「あめ玉をしゃぶりながら」話しているレベルで滑舌は悪いです。

今は下のコントロールが少々怪しくなってきた母の排泄物との格闘の日々です(笑)
しかし、こうして母の下の世話をしていてふとデジャビューのような感覚になることがあります。
「あぁ、50数年前私もこうして母に世話になっていたんだな」と・・・
そう考えると少々の失敗も怒れなくなります(笑)

退院後家に帰るとデスクトップパソコンの調子が悪く、母を引き取るまでの数週間原因究明に没頭していたせいなのか肩が凝ります。ひどくなると背中まで。
背中の痛みで検索すると「膵臓がん」がヒットするので少々暗澹たる気分になったこともありましたが、風呂に入ったり、軽いストレッチで軽減するので整形外科を受診すると、首の筋肉が強ばっていて頸骨も若干まっすぐな状態(ストレートネック)だと診断されました。
飲み薬と湿布、そして椅子を思い切って新調して今はいくらか楽な状態です。
でもこうしてパソコンには向かってしまうのですが(笑)
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舌癌になって・・・リハビリ9そして退院 [病]

日曜日3月2日午前に退院することが決まりました。
本当は1日土曜日でも良いのですが、あえて自らの意思で一日延ばしました。

理由は、木曜日の段階で食事が「えん下Ⅲ」まで来ていて、ここまでくれば本来退院なのだそうです。
しかし食事には後2段階「一般の全粥」と「一般」があって、医師からは「一般」は苦労するだろうと言われています。そこをあえて経験と言いますかチャレンジしてから退院したいと考えて一日延ばしました。
本日金曜日が「一般の全粥」で明日土曜日に「一般」。
社会生活や仕事での外食等のことを考えると「一般」までたどり着いていたほうが良いことは分かっていますが、それがどの程度困難なことなのか病院にいるうちに体験しておこうというのが狙いです。

木曜日には栄養指導というものもありましたが、えん下食を参考に料理本(シニアの健康ごはん)等を使いこちらからこんな食事ではと提案すると、これで良いとのこと。一般の料理本にあるメニューで一般の人を対象にしたものなので作る方としても材料を細かく刻むなどの対処でさほど苦労せずこなしていけると思う。

2ヶ月半の入院生活は個人の経験から言えば短いものでしたが、人生初の10時間以上に及ぶ外科手術や父の死などもありとても感慨深いものになりました。

退院後誰もいない家にとりあえず帰ることになりますが、母のことやあれこれの問題に向き合わなければなりません、落ち着きましたらまたこちらでご報告をさせていただきます。



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舌癌になって・・・リハビリ8 [病]

退院決まりました!

昨日トントン拍子に「えん下Ⅰ」から「えん下Ⅱ」へ昇格。
そしてこれを掲載した本日も次のステップへへ昇格しているはずです。
ここで思いがけず、退院の話が浮上。
具体的には、今週末か来週早々には退院することが決まりました。
えっまだ「えん下Ⅱ」なのに大丈夫か?とも思うのだが、どうも「こいつなら今放り出しても雑草のように生きていける」と思われているようだ(笑)
ということで退院決定ということだけここでお伝えさせていただき、具体的な日取りはまた後日ご報告します。
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舌癌になって・・・リハビリ7 [病]

昨日月曜日から「えん下Ⅰ」食になりました。
内容はおかゆ、柔らかいおかず(里芋の煮物等)、リーナレン(栄養ドリンク)、デザート(プリンやヨーグルト)。この後「えん下Ⅱ」「えん下Ⅲ」とステップアップしていくものと思われます。
手術前と同じとは言い難いですが、完食することはできています。しかし食べるものに形が出てくるにつけ舌の存在には大きな役割があったことを実感します。
後遺症がまったく残らないなんてことは当初から期待してはいませんが、最終的には仕事柄外食できるところまで持って行きたいというのが希望ではありますが果たしてそれがかなうかどうか・・・微妙です。
おそらく口の中に頬張るなんてことはもうできないでしょう。舞妓さんのように小さなお口で少しづつというのが限界かもしれません(笑)

同室の人の中には私と同じ状況を追いかけている人で不平ばかり口にして病気との戦いに積極性を失っている人もいますが、まぁ命があるだけで感謝せねば。
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舌癌になって・・・リハビリ6 [病]

金曜日に流動食へ進んで次の日には今まで径管で胃に直接流し込んでいた栄養も口から飲むように変更されました。

口からの栄養となったことでひとつ苦労するのがその量です。流動食は重湯やスープ・牛乳などの文字通り流動食でこれらは言わば水なのですが、これに栄養も液体状なのでその全体量が1リットルぐらいになるのです。
これを飲むのが一苦労なのです。短時間に1リットルの水を流し込むわけですから・・・これはちょっときつい。
飲み終わった後は意識が若干遠のく(笑)ぐらいです。

それから薬も今までは全て水に溶いて径管から注入していたのですが、こちらも普通の錠剤を口から投与する方法に変更になりました。つまり径管をまったく使用しなくなったわけです。

そして土曜日、径管が外されました。
第1回目手術の昨年12月25日以来約2ヶ月、ずっと鼻と頬にテープでとめられていた邪魔なものがなくなりました。顔をまともに洗うこともままならなかったこの管とおさらばしました。
あ~なんてスッキリしたことでしょう!

さぁいよいよ来週から固形物経口摂取の段階へ進みそうです。
何だかリハビリに加速度ついてきました。
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舌癌になって・・・リハビリ5 [病]

昨日朝食より一段階進んで、流動食へステップアップしました。
重湯+スープ(ミソやコンソメ・コーンなど)+牛乳系のドリンクという構成です。
この中で苦戦したのがドリンクでした。付属しているストローがまったく吸えないのです。吸っても吸っても液体を吸い上げることができません。これには少々焦りました。ストローを使わずに飲めば問題はないのですが、これもリハビリと試行錯誤した結果2回目の食事の時にはコツを発見、飲めるようになりました。ストローの口への差し込みを少なく(ちょうど前歯の裏あたり)して吸うことで解決しました。
しかしながらこの病気になる前には意識もしなかった舌が果たす役割の大きさにあらためて気づかされます。


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